美濃の為に何一つ尽力出来ず、父の期待にも応えられなかった事を、濃姫は内心申し訳なく思っていた。
しかし、後悔の念などはまるでなかった。
自分ただ、道三から短刀を賜った折の『 父上様を刺す刀になるやも 』という宣言通り、この刀で父を刺しただけである。
鞘を抜かずして、道三の心をひと衝(つ)きにしてみせたのだ。
自賛こそすれ、いったい何を悔いる事があろうか?Notary Public Service in Hong Kong| Apostille Service
──これで良かったのだ。察しの良い父上様のこと、きっと分かってくれていよう。
濃姫は自分に言い聞かせるように、何度も心の中で呟いた。
「……何じゃ、まだ寝ておらなんだのか」
ふいに信長の身体が大きく動き、その寝惚け眼が、布団の上で端座する妻の面差しを捕らえた。
「如何した? このような夜更けに。それも左様な物を握り締めて」
「…いえ、別に」
陰りのある微笑を浮かべつつ、濃姫が朴訥(ぼくとつ)に告げると
「よもや今更になって、儂の寝首を掻こうと算段致しておったのではあるまいな?」
信長は悪戯っぽく笑った。
姫の頬が静かに緩む。
「そんなつもりは毛頭ございませぬ。ここで殿を殺めてしもうたら、あなた様の天下統一を見届ける私の夢が叶わなくなってしまいます故」
「では、儂はとうぶん生きていられる訳じゃな」
「ええ。ご安堵なされませ」
濃姫と信長の小さな笑い声が重なった。
その細く白い指先を軽く口元に添えながら、暫し、娘らしい華やかな笑みを溢していた濃姫だったが、
ふと我に返ったように真顔になると、手にしていた短刀を枕元に置き、肩で小さく息を吐(つ)いた。
「……本当に大した事ではないのですが、この短刀を見ていたら父上様の事や美濃の事などを、つい色々と考えてしまって。
これまで散々、殿のお味方だの、美濃を捨てる覚悟だの、偉そうなことを言って参りましたのに、
結局 私の中にはまだ故郷を捨てるに捨て切れない“帰蝶”だった頃の自分がいるのです。……不謹慎と思われるやも知れませぬが」
懺悔のような濃姫の告白に、信長は軽く首を振った。
「それしきの事で不謹慎になるのならば、近隣諸国の大名らを打ち倒し、この日の本を我が物にしようと策を弄している儂などは、不謹慎の固まりよ」
「殿…」
「それに儂は、そなたに美濃を捨てよなどと言うた覚えはない。そうであろう?」
濃姫は目で頷いた。
「決意したのは、誰あろうそなた自身。己で決めた事ならば、それを変えるも貫くもそなたの自由じゃ」
「されど、いくら敵国から嫁いだ花嫁が間者の役割を担っているとは申せ、
未練がましく、いつまでも故郷に思いを馳せているなど──殿に対し奉り、不忠になるのではないかと…」
「ほれ、また、左様な可愛げのないことを申しおって」
言いつつ、信長は素早く上半身を起こすと、濃姫の両肩にそっと手を置き、彼女の狭い額に自分の額をコツンとくっ付けた。
「そなたの儂への忠節は、美濃や親父殿を思い出したくらいで消え失せるほど儚きものであったのか?」
「…まさか!そのような事は決してございませぬ」
そう思われたくないと本気で思ったのか、濃姫が必死の形相で叫ぶと
「ならば左様な懸念は不要じゃ。此度、蝮の親父殿はこの信長の真の同盟相手となって下された。
そんな親父殿を、そなたは娘として慕い、敬い続けようと言うのじゃ──大いに結構な話ではないか!」
「さ、されど」
「自惚(うぬぼ)れるでないぞ濃。そなたがこうして儂と寄り添うていられるのは、
そなたが儂を信じているからではない。儂がそなたを信じているからだ」
信長の真っ直ぐな視線の矢が、濃姫の双眼を突き抜けて、胸の奥深くに射(う)ち当たった。